音読/素読について

なぜ「森のようちえん」で素読なのか?

森のようちえんは豊かな自然環境を基軸とした保育活動です。しかし、子どもの脳や体の健全な発育には自然の中で遊ぶことだけで十分、という訳ではありません。幼児教育は「義務教育及びその後の教育の基礎を培うもの(学校教育法23条)」とされているとおり、「生きる力」の基礎を育成する時でもあります。

子どもたちが歩き、思う存分遊んで体を動かすことを「生きる力の育成」の第一の柱とすれば、言葉の「体力」をつけることを私たちは第二の柱と考えています。

 

母語をきちんと正しく操り、言葉を大切にすることがますますおろそかになっているように思えます。グローバル化というものが避けられないのだとすれば、そこで必要とされるのは確かな思考力や判断力です。外国語での会話の「中身」も、我々の母語を基礎とする教養を超えることはありません。思考や思索を支えるのは他ならぬ我々の言語能力です。そして、そもそもこれはグローバル化以前の問題です。

 

では、そもそも幼児教育で言語能力の向上が可能なのでしょうか。日本の幼児教育の祖である倉橋惣三は「幼児教育は生活の中での教育(現在では「環境による教育」と言われています)であるべきだ」と言いました。子どもの自然な時間の過ごし方の中に全てが組み込まれるべきだということです。つまり、幼稚園の場合には教科書を使った「意味」の教育はあまり効果がありません。子どもの発育段階がそれに向いていないからです。

 

しかし、子ども時代に言葉の力を付けること自体には重要な意味があり、昔から「素読」が3歳児程度からを対象に行われてきたのも、そのことが経験上有用だと実証されてきたからでしょう。では、「意味」の教育が向いていないならばどうすればいいのか? それは耳からの「音」「リズム」「韻」のインプットです。一つひとつの音の響き、五七五に代表される日本語のリズム、格調ある流れと響き、それらを意味とは切り離して朗唱する。単にこれだけですが、子どもたちは歌を覚えるようにそれに親しみ、元気に朗唱を繰り返す中で体の中に日本語の力がしみこんでいきます。言葉の響きやリズムを反復・復誦し、何度も繰り返し読むことで、普段話されている言葉とは言葉の次元が違うことを次第に感じます。江戸時代の素読は3歳から始めて15歳くらいまで行われたそうですから、幼稚園時代だけでは心許ない部分はありますが、言葉に関心を持つにはいいタイミングだとも言えます。

 

素読には、別の効用もあります。情緒の安定、語彙の多さといったものですが、小学校に入っても言葉が通り過ぎずにしっかり理解できる、文字を苦手にならない(素読は意味が分からなくても、ひらがなや漢字が読めなくても本を見ながら行います)、といったことが指摘されています。

 

実際の素読はいきなり難しい内容からは始めません。特に春学期は3歳児がいるので、早口言葉や言葉遊び詩のようなやさしいものから入ります。言葉を口にすることが楽しいと感じてもらいます。その後、俳句、短歌、論語といったものからいくつか取り上げていきます。

 

小学校に入ったら、どうするのか? これはご家庭での努力も必要です。学校の教科書を目の前で繰り返し音読させると、国語に限らず、算数でも社会でも理解度が異なるはずです。素読に慣れていれば、それらの音読(意味を分かって読むので素読ではない)も苦にならないはずです。